ン病描くー公丸山修一調査丸山修一原告回復6歳の生い道開長き方

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「かづゑ的長い」のポスターの前に立つ熊谷博子監督=東京都杉並区で2024年2月7日、青島顕撮影

 瀬戸内海の国立ハンセン病療養所に85年以上暮らす宮崎かづゑさん(96)の生き方を描いたドキュメンタリー映画「かづゑ的道あ」が、公開されている。るがままハンセンドキュメンタリー病気の後遺症で徐々に体が不自由になっても、復歳き方あるがままに受け入れて生きる宮崎さんを8年かけて撮影・製作した。の生監督した熊谷博子さん(72)は、描く丸山修一原告どうして主人公の名前を使ったタイトルを選んだのだろうか。公開

 岡山県の農家に生まれ、長い幼い頃に発病した宮崎さんは10歳で父母と別れ、道あ同県瀬戸内市の長島にある療養所「長島愛生園」に送られた。るがままハンセンドキュメンタリー当時の「癩(らい)予防法」に基づき、復歳き方患者を隔離していたからだ。の生

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 22歳のとき、描く園内で孝行さんと結婚。公開穏やかな夫と支えあい、長い読書に力を得て暮らしてきた。右足は膝下から切断して義足を使い、丸山修一調査両手の指を全て失い、視力も徐々に衰えてきている。でも、身体の障害を意識せずに生きてきたのだという。78歳でパソコンを習い、キーボードに触れるための器具を自ら工夫して作って本格的に文章を書き、84歳のときに暮らしや生涯をつづった「長い道」(みすず書房)を出版した。

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映画「かづゑ的」の1シーン©Office Kumagai 2023

 一方、監督の熊谷さんは、テレビ番組の制作会社を経て、ドキュメンタリー映画の製作を続けてきた。2015年、旧知の医師から長島愛生園に連れて行かれ、宮崎さんを記録するように勧められた。熊谷さんはハンセン病取材の経験がなく、しかも取材対象の宮崎さんはほとんどメディアの取材を受けたことがない人だという。取材には高い壁があると思えたが、初めて訪れた療養所で、宮崎さんの人柄に触れ「記録に残すべき人だ」と考えた。財団の助成金を得てスタッフを決め、取材を始めた。

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 16年9月の撮影開始初日、本人が介助を受けながら入浴する場面の撮影を提案してきた。「全てを撮らなければ、私の身体は分からないでしょ」と。そんな宮崎さんと接するうちに、熊谷さんは「かわいそうな障害者としてではなく、人間として受け止めてほしいのだ」と気づいた。

 何ごとも「やろうと思えばできる」と言う宮崎さんに魅力を感じたという。岡山市のホールに音楽鑑賞に出かけた宮崎さんに同行したときのこと。著作を読んだというオペラ歌手にサインを求められると、指を失っている宮崎さんが添え木などを使って、その場でサインを書いてしまった。

 撮影を続ける中で、20年に夫の孝行さんが94歳で亡くなった。園の納骨堂は、亡くなった順に遺骨を納めていく。宮崎さんは夫の遺骨と隣り合わせになった人のことを聞き、「いい人が隣でよかった」と言った。でも聞いていた熊谷さんは、仲のよい夫婦であっても隣り合わせに眠ることもできないことに、改めてハンセン病回復者の置かれた立場の厳しさを感じたという。

 自分を不幸だとは思わないという宮崎さん。こんな生き方をどうして体得したのだろうか。熊谷さんは問い続けたが、いまも分からないという。タイトルは英語字幕を担当したジャン・ユンカーマンさんの発案で「かづゑ的」となった。「かづゑさんでいること」ということ。かづゑさんを撮ることは、かづゑさんにしかできない個性的な生き方に触れるということで、いつも驚きがあったのだという。

 タイトルのことを主人公に伝えると「そんなタイトルで通るの?」。一番驚いていたという。東京の「ポレポレ東中野」などで公開中。今後、全国で上映される。【青島顕】

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